先日の記事中の佐世保の宿の写真(と訂正)
先日書いた、『ぼくが遺骨を彫る人「ガマフヤー」になったわけ』を読んだ、の冒頭で、佐世保の旅館で使われていた陶器の手榴弾(の余りもの)のことを書いたが、その写真がでてきたのでご覧頂きたい。
それと花壇ではなく、むしろ塀というべきものに使われていたのだった。
記憶というのがいかに曖昧かということを改めて自覚した。そして、世界中に今、極めて莫大な数量の影像が溢れているが、歴史の検証という点では、非常に有用だと、一応は言えるだろう。
もちろん、それらを恣意的に取捨選択して提示すれば、歴史の捏造にも使われかねないのではあるが、自由に莫大な影像にアクセすることさえできれば、そういった目論見はすぐ露呈することになるはず。
ところで、ついでに少しこの旅館のことを書いておこう。ただし、こちらは記憶だけが頼りなので、正確か否かは保証の限りではない。
その日は初めての佐世保だったのだが、宿の予約もしておらず、なんとなくアテもなく、繁華街から外れた一角をブラブラ歩いていた。大阪などでもそうだが、こんなところに何故、と思うような場所に小さな旅館があったりする。全くメインストリートではない、路地裏といってよいような道に面してこの宿もあった。
何より安いことが一番の条件だったので、ここならと思い聞いてみれば、幸い一部屋だけ空いていて、値段もとても希望に近かったので、泊まることにした。もちろん和室で、頼んだ夕食は部屋で食べることができた。その折、少し女将さんに話を聞いてみた。
主なお客さんは五島列島から大阪や東京へ向かう人々。船で佐世保に着くと、その日はここに泊まることになる、ということだった。海外旅行で、よく二十数時間かけてようやく着いたみたいなことを言うが、離島に暮らす人達は、日本国内すら一日では行けない。空港があったとしても便数は限られるし、なんといっても運賃は高い。LCCはそんなところに飛んではくれない。
当時は学生などがスポーツ大会などに参加する時などに利用することが多い、という話だった。もちろんいわゆる商人宿で、行商人もいただろうが、そういう人は減っただろう。いずれにせよ、ほとんどがそういった昔からのつながりでやってくるお客さんなのだ。今でも営業しているのかどうかは不明だが。
手榴弾については、実は詳細は忘れてしまったが、たしかお父さんが戦前製作に関わっていて、戦後、使い切れずに放置されていたものを利用した、という話だったと思う。平和利用されてよかった、というようなことを言ったか言わなかったか‥‥。
最後に次の投稿の予定を書いておこう、自分のためにも(必ず記事を書くようにするため、という意味)。
現在読んでいるのが、『動くものは全て殺せ』という、ベトナム戦争の実態を書いた本。新聞各紙などに書評が出ていたようだが、全政治家必読と言ってよい内容だ、と考えている。これについては必ず書きたい。
他にも、既に読んで書きかけのものがあるので、それもUPしたい。と書いておこう。