『日本林業を立て直す 速水林業の挑戦』を読んで
著者の速水氏は生家の林業を継ぎ、日本の林業家としては先進的な林業経営に取り組んでいる人だ。日本で初めてFSC(※)の認証を取得するなど、生態系のなかで真に持続可能な林業がどのようなものであるかを実践を通して考えている。
さて、数十年来ノー政と言われ続けて、根本的には無策のまま放置され続けてきたのが日本の農業で…というのはまあまあ多くの日本人が知っている話だろう。それでも放置され続け、超高齢者農業となっているのが日本の農業及び農政の実態だが、それより遥かにほったらかしになっているのが林業だ。
省の名称としても農林水産省というものがあって、林業が一つの大きな行政上の範疇でもあることがわかる。実際国土の66.6%は森林なのだから。それを相手になりわいをしているのが林業ということになるが、近年の林業家の平均年収はわずか26万円に過ぎないという。まったく生業(なりわい)として成り立っていない。そんなことを知っている人はごくわずかだろうし、関心のある人も少ないのだろう。生活上で関わることは、まあハイキングに行くくらいで、ことに東京近辺の人は山が遠いので目に入ることすら少ないに違いない。マスコミもあまり取り上げないので、知らなくてもしょうがないかもしれない(山の風景は映っても、森林の実態といったものまではわからない)。しかし政治家ともなれば話は別で、なにしろ国土の3分の2に関わる話である。よく知っていてもらわなくてはならないはずだが、まあ知っていてこの状態なら全くの職務怠慢(どころの話ではないが)、実際はあまり分かっていないというのが実態らしい。
政治家はともかく、ある程度森林に関わりのある人の中にも、漠然と針葉樹の植林よりも広葉樹林の方が「良い森」というイメージがありそうだが、著者の速水氏はそれは誤解だという。事実、速水林業所有の森林で見つかった植物種数を比較すると、広葉樹中心の保護林で185種、ヒノキ人工林では243種が確認されている。良い管理がされた人工林は自然林以上に豊かな生態系を育むことが可能ということだ。もっとも「命の集合体の森」という観点から事業に取り組んでいる速水林業の森だからではあるが。
ついでに言えば、本書でも触れられているが、一般に豊かな森の代表のように思われているブナだが、ブナの純林にはブナ以外の植物はあまり見あたらない。私自身、たしか福井県だったと思うが、ブナの純林を歩いたとき、すでに葉を落としていた時期ではあったが、全く見通しがよく林内のどこでも歩きやすかったことを覚えている。ブナの場合はアレロパシーがあり、林床に他の植物が生えにくいのだ。決してブナだから豊かな生態系、というものではない。
日本列島の歴史のなかでも、現在ほど森林資源(ここでは材となる樹木)に恵まれている時代はない(これについては他の書評を書く予定)。にも関わらず数十年来、日本の木材自給率は30%以下で推移し、近年は総需要が減少し、さらに国産材の利用が減っている。自給率が持ち直さないのは、ひとえに価格の問題だが、北欧などのきちんとした管理の下で、持続可能な林業を営んでいる地域からの輸入ならまだよいが、それ以外の地域では多かれ少なかれ収奪的な林業が行われていることが多い。合法的であっても生態系への影響や元来その森林のよって生きてきた人たちへの人権侵害などの問題の多い外国産材だが、現状の法律の範囲でも違法である材木が二割は含まれているという。安いからと使っているコピー用紙なども、違法伐採された材が原料である可能性が高い。
ずいぶん以前になるが、シベリアの永久凍土地帯にあるタイガの森林伐採の様子がテレビで報告されていた。従来なら一本一本 十分な太さのある木だけを選んで伐採していたものが、大量の取引があるからと重機で一帯の樹木をなぎ倒すように伐採する。そんなやり方をすれば、次の世代の樹木が育たないことはもちろんだが、凍土層に太陽光が直接当たるようになる。すると永久凍土とはいえ、融解し始める。いったん融解すると不可逆的に融解は進んでしまう。永久凍土は単なる水ではなく、メタンを大量に含む。それが大気中に放出される。メタンは強力な温暖化ガスなのだ。そんな伐採のやり方はそれ以外にも、様々な悪影響を及ぼす。(参考 http://www.foejapan.org/siberia/index.html)
そして、その木材の輸出先は主に日本なのだ。違法な木材を輸入することは、現在も日本人がそういうやり方を認めているということになってしまう。
世界の森林の状況を見たとき、日本人が日本の木材を利用しないのは罪悪にも等しいのかもしれない。そんな状況を可能な限り改善するために、まずは林業に関心を持つのが日本人としての責任とも言えるのではないか。殊に政治家には十分な理解が求められる。そのためにもこういう本がもっと読まれるべきだ。
(※)1993年、WWF(世界自然保護基金)などの環境団体や林業者、木材取引企業、先住民団体などによって組織された非営利の国際団体。FSCの森林認証は、「環境保全の点から見て適切で、社会的な利益にかない、経済的にも持続可能な森林管理」を推進することを目的とし、認証された森林から出された木材・木材製品にロゴマークを付けて流通させる。
『殺す理由 なぜアメリカ人は戦争を選ぶのか』を読む
『バリアフリー・コンフリクト 争われる身体と共生のゆくえ』を読む
先日書いた『評伝 ジャン・デュビュッフェ』に関連して、もう少し
岡本太郎がジャン・デュビュッフェと関係があったか否か不詳だが、活躍した時代は重なるし、“徹底”と“爆発”の突出した人物像、それにデュビュッフェがアートの原初的な姿を求めてアルジェリアに行き、トゥアレグの民と生活を共にしたことなども太郎の沖縄行きなどと共通するものがある。代表作「太陽の塔」は、デュビュッフェの死後パリ郊外のサンジェルマン島に完成した立体作品と、内部空間に入ることができるという点でも共通する(大きさは少し小さく、また内部には特に何もないそうではあるが)。
『評伝 ジャン・デュビュッフェ アール・ブリュットの探求者』(末長照和著 青土社刊)を読む
アール・ブリュット、あるいはアウトサイダーアートという言葉を知ってはいても、その言葉を考え、作品を収集し、自らの資金で協会まで作りその考えを普及させようとしたジャン・デュビュッフェは、日本では一般にはあまり知られていない。私自身もこの本を読むまでは名前は認識していても、作品と結びついていなかった。小さな図版を見て、ああ、あれかと気づいた、という程度なのだ。
だが、少なくともフランスでは(おそらく欧米全般でも)20世紀後半における最大級のアーティストである。なにしろグーグルアースで彼の作品が見えるのだ(セーヌ川がパリ市をでてすぐのところにあるサンジェルマン島を見れば分かる)。そんな作家はそうはいないだろう。しかも、本来は平面が主体の作家であるにもかかわらず。
この本の主題は大きくは二つ、一つはデュビュッフェの生涯を客観的に通覧すること、そしてもう一つがアール・ブリュットとはなんなのか、少なくともデュビュッフェにとって。そして究極的には、それを通じてアートとはなんなのか、を考えることになるのだと思う。
私自身の経験と思考から、アール・ブリュットという言葉には曖昧な面があり、というより明瞭な輪郭をもたない言葉だと認識してきたが、デュビュッフェ自身、生涯その混乱を解消できなかったことの表れが没頭に示した言葉だ。結局アール・ブリュットが何を意味するのか(まずはデュビュッフェにとって)は、というよりは何を意味することが可能なのかは、おそらくこの本を読んだ人にはかなり明瞭になると思う。
デュビュッフェ自身、その混乱を意識していたとは思われる。そのせいもあってか、彼は文章も多く残しているらしい。デュビュッフェの文章はほとんど邦訳されていないようだが、彼自身さまざまな読書をし、よく考えたことは確かなようだ。そして、かなりストレートに同時代のアートに対する批判を表明していた。アンフォルメル(「不定形」と日本語には訳されているが、「非公認」というのが正しいようだ)という言葉で、他の同時代の作家と一括されようとしたときも、はっきり拒絶している。この定義の曖昧な言葉を言い出したのは美術批評家のミシェル・タピエだが、彼に対しては激しい抗議の手紙を書いている。だが、他者の作った曖昧な言葉にははっきり意見しても、自分の作った曖昧な言葉にはどうであったのか。
彼のはっきりした体制側(タピエもその一人だったのだろう)、権力側の人間に対する批判(的を射ているか否かは別として)は容赦ない。彼のアートに理解を示していた人物であっても、その人が政府機関(美術館長でも、それが国立であれば)内にいれば、徹底して嫌悪する。そんな意味でも、同時代作家の中では(現在で考えれば一層)抜きん出た存在だったようだ。そしてその嫌悪、批判の底にあるものこそが、彼の目指した、そして本当の芸術だと考えた、本来のアール・ブリュットなのだと思う。
いずれにせよ、デュビュッフェは徹底した。徹底して「本来のアート」を追求し、休むひまなくそれに向けて考え、そして実際に制作した(フランス人でありながらバカンスに赴くこともなく、生涯で一万点以上の作品を創った)。内なる矛盾にも半ば気づき、徹底してそれに対峙しようとしたからこそ、考え続け、制作し続けたのだと思える。そして我々自身がアートとは何かと考えたときにも、それは通らなければならない道程なのに違いない。
資料が日本にはほとんどないであろうデュビュッフェのことを、あたう限りの資料(もちろんフランスなどにある手紙などを含む原資料)を読み込んでの著作のようで、たいへんな労作であると言えると思う。事実を淡々と追いながら、生涯にわたる想念の遍歴に思いを巡らせて、理解の難しそうな画家の内面をできる限り明快に表現している。アール・ブリュットに関心のある人にとどまらず、アートを考えようとする全ての人に読んで貰いたい本だ。