アラブの春はどこへいった?

 前回の記事からずいぶん時がたち、例年ならまだまだ冬という時期だけど、今年はもうほんとに春な感じ。
 ところで、アラブの春という言葉、もうすっかり忘れられたかもしれない。かつて春が来たかに見えたほとんどの国は、その後むしろ一層混迷を深めてきたように思える。そもそも春が来もしなかった国もある。さらには各国の関係も大きく変化し、おかげでイスラエルが漁夫の利というか、少なくともイスラエルにとっての脅威はかなり軽減したらしい。
 唯一、一応の民主化を果たしたのは、アラブの春の端緒となったチュニジアだけだ。2011年1月、日本の東北で大地震が起こるちょっと前にアフリカのチュニジアでは革命が起こった、ということになっている。ちょうどそのころチュニジアにいた人が二人、一人は在チュニジア日本大使、ひとりはJICAのシニアボランティアという立場から本を書いている。ちょっと前の本だが紹介したい。
 大使であった多賀氏は現場で接したチュニジア革命の実相を、ボランティアで大学の日本語教師をしていた守能氏は教員生活を通して接したリアルなチュニジアの日常風景を活写している。私は三十数年前の春の初めから秋の初めまで、チュニジアで生活したことがある。それだけに私には二人の書いていることがとてもリアルに感じられた。地名、それに建物の名前でさえ、忘れられないイメージの中にあるものが次々に登場するのだ。
 とは言っても、ほぼ四半世紀の隔たりがある。人口は700万人から1000万人に増えていた。経済的にも発展があり、大学進学率が37%というのは私にはちょっと驚きの数字だった。実は私はJICAのボランティアに友人がいて、首都のチュニスで彼の厄介になっていた(だから約半年もの長期間滞在できた)。守能氏と同じく彼も科学技術系の大学の職員として仕事をしていたのだが、当時聞いたこともない新しい大学の名前がいくつも出てくる。


『「アラブの春」のチュニジアで おおらかな人と社会』守能信次著、2015年風媒社刊

 この本を読んで懐かしい様々なこと、モノ、風景などがよみがえった一方、時間の流れも実感した。変化を最もリアルに感じたのは、TGMという鉄道の話だ。SNCFTという文字通りの国鉄に対して、TGMというのは日本でいえば私鉄のイメージか。チュニスから北に向かい、歴史上も有名なカルタゴを経由し、高級住宅街に至る、まあ郊外電車といった感じの短距離の鉄道だ。私のいたころはまだ車両も最新とはいえないまでも小ぎれいで、観光客もよく利用する便利な路線、という印象だった。
 それが守能氏によると、車両や駅舎はボロボロで落書きだらけ、子供が危険な乗り方をしても注意する駅員が、そもそもホームにはおらず、荒れたイメージで観光客の姿もほとんどないという。
 高級住宅街の住人たちは自家用車を使うようになり、低所得者のみがこの路線を利用している、というところはチュニジア革命の底流にもつながる話だ。経済の発展は貧富の格差の増大となって表れたわけだ(世界中どこへ行ってもこういうことになりがちだが、関連してカリブ海の国ハイチに関する本についても記事を書く予定)。私も散々聞いたチュニジア人の自尊心の強さは、そうした貧富の差を富者にはあまり意識させない方向に働くのだろうか。守能氏の描くチュニジアの姿は革命後のチュニジアなのだが。
 革命という言葉が使われてはいるが、実際には貧者と富者が一気に入れ替わってしまった、といったことはほとんどないようだ。守能氏は実は革命の2日前にチュニジアに到着、革命のため一旦退避し、4月に再びチュニジアにやってくるが、予定されていた通りの業務に着任している。つまり国立の大学はそのまま業務を継続している。政治家は入れ替わったが、社会全体としてみればそう大きく上下が入れ替わったりはしていないのだ。
 大きな変化としては、独裁色を一層強めて自身及び妻の一族の汚職や腐敗を放任してきたベン・アリ大統領の失脚はたしかにあったことで、その後民主的に憲法が改められ、一応民主制の体裁は整えられた。だが、例えば日本は本当に民主主義国家といえるのか、といった疑問が今もって消えないように(少なくとも私には疑問だ)、民主主義は一夜にして成し遂げられるものではない。
 そういった革命の実態を、大使という立場でその渦中の視点から描いたのが多賀敏行氏だ。


『「アラブの春」とは一体何であったのか 』多賀敏行著、2018年臨川書店

 多賀氏は基本的には、歴史には必然ということはなく偶然の重なりに過ぎないという考えの人だ。歴史に必然性があるか否かは多くの議論がある難問だ。ただ、チュニジアの革命に関しては、いくつかの偶然が重ならなければ起こりえなかったことだ、という多賀氏の考えは説得力がある。それは上記したように、制度的に民主化し、政治家の入れ替わりはあったものの、社会全体を見ればそう大きく変わったわけではないらしいことからも納得いく話だ。
 ウィキペディアジャスミン革命の記事は出典のほとんどが2011年になっているので、その後ほとんど更新されていないようだが、本書で書かれていることが正しいとすれば改訂される必要のある個所がいくつかある。主要な点はジャスミン革命の発端となった事件、それにベン・アリ元大統領の出国の経緯で、確かにそれが多賀氏の記述通りなのであれば、いわゆるジャスミン革命が歴史的必然として起こったというより、かなり偶発的な面もあったということになると思う。
 そしてこのチュニジアの革命がなければ、おそらく先日亡くなったムバラクは大統領として死んでいたかもしれなく、カダフィもいまだに健在だった可能性が高い。さらにはアラブ各国が今後イスラエルの存在を認めることになるとすれば、とてもローカルな偶然が、世界の歴史を大きく変えたということになるかもしれない(ただ、私は歴史が全く偶然的だとは考えていない。関連して『政治の衰退』という本のことも書くつもり)。
 本書は朝日新聞の付録、GLOBEでも取り上げられたことがあり、現在もその内容は読むことができる。内容は当時の本人の手記や関係するウィキリークスの記述などをまとめたもので、問題のポイントは何度か繰り返し記述されており、わかりやすいしすぐに読めてしまう。歴史学やアラブの現状に関心のある方はぜひどうぞ。

温暖化と中村哲医師

 radikoタイムシフトで昨年12月30日分、2019年最後のJET STREAMを聞いた。いつも通り、比較的穏やかで落ち着いた大人向けな音楽が続く。番組の後半で突然「100年に一度、観測史上にない、今年は何度この言葉を聞いたことでしょう‥‥」と大沢たかお氏の、これまたとてもとても穏やかな声で、急激な温暖化という社会(環境、政治)問題について語り出した。
 そして「今年は最後に‥‥中村哲医師が西日本新聞のコラムに書かれた言葉を少しだけ紹介して終えたいと思います」と言う。60年代、70年代のラジオ深夜放送ならいくらでも政治的発言や社会問題についての発言はあっただろうが、この番組の2019年最後の言葉としてというのは、かなり驚いた。
 「巨大都市カブールでは、上流層の間で東京やロンドンとさして変わらぬファッションが流行する。見たこともない交通ラッシュ、かすみのように街路を覆う排ガス、人権は叫ばれても、街路にうずくまる行き倒れや流民達への暖かい視線は薄れた。泡立つカブール川は汚れ、もはや川とは言えず、両岸はプラスチックごみが堆積する。国土を顧みぬ無責任な主張、華やかな消費生活へのあこがれ、終わりのない内戦、襲いかかる温暖化による干ばつ、終末的な世相の中でアフガニスタンは何を啓示するのか。見捨てられた小世界で心温まる絆を見いだす意味を問い、近代化の更に彼方を見つめる。」

 続いて、トム・ウェイツの“グッド オールド ワールド”が流れた。
 JET STREAMといえばご存知の通り、某国(元?)ナショナルフラッグつまり航空会社の数十年来の、ほとんど宣伝用(単にコマーシャルが流れるだけでなく、内容までもが)の番組だ(よね)。
 温暖化問題に関する言葉として中村哲さんの言葉を取り上げたこと自体はもちろんだが、この番組で朗読されたことにとても意味があるような気がしたのだが。

最近やり出した金継ぎのこと、それと金継ぎに関する本のことなどを

 二十年位前(もっと前かも)、お気に入りの絵皿を割ってしまった。南欧風な感じのデザインで、うちの一番大きな皿でもあった。陶磁器というのは気に入ったものほど割ってしまうもので、たいした値段のものではないが意匠にこだわって探して買い求めたものもよく割ってしまった。接着剤でくっついたとしても使い物にはならないだろうし、残念な気持ちで捨ててきた。でもその時は何とかならないかと思い調べてみたら、漆で接着できるらしい。釣り道具の修理に漆を使うらしく、その漆で陶磁器も修理できる、というようなことだった。それで漆は釣り道具店に売っているとのことで、行ってみると実際チューブ入りの漆を買うことができた。

 

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20年ほど前に割れた皿。黒漆で再補修したので割れ目が黒くなった。


 その頃より前だと金継ぎに関する情報はごく限られていたはずで、金継ぎ手引き的な本を大阪市立図書館で検索した中では1998年発行のものが一番古く、他は全部2010年代のものだった。そんな、何の情報もない中で金継ぎ技術を身につけるために随分往生しなければならなかった話が次の本に出てくる。

古今東西陶磁器の修理うけおいます』甲斐美都里著、中央公論新社2002/4

 著者は京都の高校生の頃から骨董に目覚め、とはいえ随分年齢がいってから金継ぎの修行を始めた。まだ素人が金継ぎをするということは皆無の頃だ。ちょっと前まではそんな状況だったのだ。

 それで話を元に戻すと、私にもそれ以上の何の情報もなかった。本当にうまく付くのか、どの程度の強度があるのか、料理を盛りつけても大丈夫なのか、など分からないことばかりだったが、とにかく普通の接着剤のように(チューブ入りなので普通に接着剤っぽく見えた)直接漆を割れた皿に塗りつけひっつけてみた。本当なら漆を乾燥、というか硬化させるためには室に入れて湿気を与えねばならない。が、そんなことも知らず、ただ放置しておいただけなのに一日経つと意外にしっかりくっついているではないか。ただ、はみ出した漆の色が褐色で、絵皿としては残念な仕上がりとなった。オーブンで使える皿だったが、もちろんオーブンで使う訳にはいかない。強度的にもどの程度のものか分からないので、一応付くには付いたが、ほとんど使うことなく結局食器棚の奥にしまいっぱなしということになった。

 それから時を経て、金継ぎという言葉も知ったが、金を使うほど値打ちのある器がある訳でもない。だが、少し端が欠けたがまあ使えないでもない、というものが増えてきた。使えなくもないが、うっかり唇を切らないとも限らない。なんか方法はないか、とたまたま図書館で金継ぎの本を手に取ってみた。

 すると、日常的な器でも金継ぎで補修している。ちょっと読んでみると、接着や欠けを埋めるのには漆に砥の粉を混ぜたものを使うとのこと。うちにあるじゃない、両方とも。そして金粉はあくまで仕上げの、見栄えをよくするためのもの。モノによっては銀粉、銅粉、錫粉などを使うこともあるし、漆仕上げにしても構わない。考えてみたら、漆器は全面漆なんだから。上記の本は具体的なやり方は書いていないので、別に金継ぎの手ほどきの実用書を借りた。

 帰って、まずは本に一通り目を通し、食器棚から欠けたりひびが入ったりした器を選り分けてみる。思っていた以上にたくさんあった。ラッキー、というのも変だが、練習台に事欠かないということだ。

 だが、さっそく始める、という訳にはいかなかった。仕上げをどうするか。金粉を使うほどのものは一つもない。錫粉とかでもいいんだけど、まあ手間もかからず一番安くつく黒漆仕上げが良さそうだ。黒ならどんな器にでもなじみやすそうだし。

 で、ネットで漆を検索。チューブ入りのものもいろいろあるが、たいてい量が多すぎる。普通の塗料よりはかなり高い。ABCクラフトか東急ハンズなら少量のものが売ってるんじゃないかと思い、まずはABCクラフトに行ってみた。さすがに様々な工芸の材料や道具が並んでいる。工芸用の塗料も各種あるのだが、漆だけは見あたらない。本を見ていると、結構金継ぎ教室みたいなのもあるようなのだが、まだ商売になるほどじゃないのか。それともみんなネットで買うからか。ネットが一般化してからやり出した人がほとんどだろうからね。これは東急ハンズも怪しい。この頃のハンズは美術家が材料買うというより、ちょっと変わった完成品を売る店的な感じが強いから。実際行ってみたが、該当フロアに行ってもABCクラフト以上のものはありそうにない。けれど一応店員に聞いてみた。ら、あった。透明のも含めて数種類の色漆(合成のもあるがこっちはホントの漆だと店員は説明した)が、小瓶で、しかもスクリューキャップには筆も付いている。1000円は量の割には高いけれど、これで十分と思い購入した。さすがハンズ、と一応言っておこう。

 これで、あとはうちにあるものでなんとかなる。

 で、この後実際にやってみた編を書こうと思うのだけれど、ちょっとその前にもう一度本を読んで確かめてみたいことがでてきた。ので、今日はこのへんで、続きは乞うご期待(していただけるなら)。

とりあえず、初めての記事です

 yahooブログが終了するため、こちらに新たにブログを開設しました。これまで書物を読んだ感想などを書いていましたが、いろんなことを書きたいとは思っております。まあ、ボチボチやっていきます。

 以前の日付の記事は全てyahooブログの記事です。随分前の記事ばかりですね。公開しようと書きかけの記事はいろいろあるのですが、どれも完成しないままになっています。これを機にそれらを完成させて、或いは新しい記事も書いていこうと思います。

 yahooの時のタイトルは「My MANIFESTOのためのメモランダム」というものでした。かのマニフェスト選挙が行われていた頃に始めたのです。サブタイトルには「真の民主主義は一人一人が自分のマニフェストを作ることから始まる、と仮定して」と書いています。まあ、絶望を感じることの多い昨今ですが(中村哲さんの死は大きなショックでした)希望がなければこんなブログを書くこともあまり意味はないでしょう。以前なら大望を持って、とか書いていたところですが、せめて希望は持ち続けたいと思います。このブログのタイトルも、そのうち変更の予定で考え中です。

広島型原爆640個分の爆弾を使った戦争の本質とは

『動くものは全て殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』

原題:KillAnything That Moves  The RealAmerican Warin Vietnam
著者:NickTurse  訳:布施由紀子訳  みすず書房2015/10/1発行


前回の予告通り、上記書籍を読んだので、ご紹介する。

ずいぶん前、映画好きの友人がよくレンタルビデオを借りてくるので一緒に観ていたことがある。ある頃、ベトナム戦争を題材にした作品ばかり続けて観たことがあった。例えば『地獄の黙示録』、『フルメタル・ジャケット』といったかなりの評価を得ていた作品ばかりだった。あの頃はまだまだベトナム戦争の本質とはなんだったのかといったことを追求する空気があり、どの作品もそれぞれにベトナム戦争の闇に迫ろうとする気迫に溢れ、名作と言われているはずだ。
だが、この本を読むと、それら名作があまりにも物足りない、ピントの相当ぼやけた作品だったように思えてくる。実際のベトナム戦争は‥‥あんなものではなかったのだ、と。むしろかなりの線まで漏れかけていた、この戦争の口にするのもおぞましい重大な犯罪的本質を描ききれなかった点では、大きく評価を下げざるを得ない気持ちになる。それどころか、その後の追求を鈍らせたかもしれないという意味ではマイナスの評価さえ与えたくもなる。

この本には、これまで明確に表現されてこなかったベトナム戦争の実態が、これでもかこれでもかというほどに夥しい実例に沿って描かれている(あるブログには読んでいるだけでPTSDになりそう、と書かれていた)。
はじめに述べておきたいのは、それらの実例は膨大な量の資料、証言に基づいていることだ。文中の引用、証言には逐一その出所が明記されている。その資料とは以前の研究者の報告や公刊されたものなどもあるが、特記すべきは大量の軍の資料が含まれることだ。そもそもこの本を書かれるきっかけになったのも、たまたま別の研究中に参照した、軍のベトナム戦争犯罪作業部会の記録文書だったのだ(その資料はその後、閲覧が制限されてしまう)。また証言は可能な限りの存命中の元及び現軍人、それにベトナムにも赴き、ジャングルの奥の小村にまで訪ねて、実際に米軍の不法な戦闘の被害にあった人々にも丁寧なインタビューを重ねたものだ。上梓するまでに10年を費やした労作である。

アメリカのベトナムへの軍事介入の過程には、近年中東において元々アメリカが支援したビン・ラディンが後にアメリカを標的にしたのと似た経緯がある。第二次世界大戦中、日本がインドシナを占領すると、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟会(ベトミン)はアメリカを支援、その見返りにCIAの前身である戦略事務局から武器供与などを受け戦ったという。日本敗戦後、アメリカ独立宣言を手本にしてベトナムの独立を宣言したホーはその後もアメリカの支援を期待していた。ところがアメリカは冷戦への対処で、旧支配国だったフランスへの軍事支援をはじめる。そしてフランス軍がベトミン軍にたたきのめされ撤退、アメリカが直接介入しベトナム戦争が拡大していく。


もちろんホーはアメリカと戦いたくはなかっただろう。先日紹介した『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ』でも書かれていたが、当時まがりなりにも軍事大国の一角であった日本軍でさえ(最終盤の戦闘ではあったが)沖縄戦では米軍の100分の1の弾丸しか使えなかった。戦後さらに超大国となったアメリカに対して、植民地でしかなかったベトナムなど(ソ連・中国が後ろにいたとはいえ)一ひねりで潰されてしまうに違いない弱小国でしかない。アメリカの政・軍の首脳はそう思っていたし、そう思い続けた。


実際、第三章には驚くべき数値が示されている。米軍が北ベトナムに投下した爆弾は一時間あたり平均32t。北ベトナムは歴史上最も多く爆撃を受けた国になる、という予測があったそうだ。ベトナム戦争中に東南アジアで使用された爆弾の総計は、広島型原爆640個分に相当する。ところが、その大半が南(北ではない!)ベトナムに落とされていたそうだ。航空機の出撃回数340万回、その大半もまた南ベトナムへの出撃だった。


アメリカの敵は本来北ベトナムではなかったのか。実はこれらの数値は、その他のいくつかのキーワードとともに、ベトナム戦争の本質を明瞭に物語るものなのだ。
195000人、415000人、200万人‥‥これは民間人死者数についてのそれぞれ、米国防総省の統計分析官、アメリカ上院の小委員会、ベトナム政府のいずれも推計値だ。これだけばらつきがあるのは、端的に言って実態が把握できないからだ。この数値は調査が入念になるほど大幅に膨らみ、2008年のハーバード大学医学大学院とワシントン大学保健指標評価研究所の共同研究チームによる数値は、戦闘員・非戦闘員合わせた総数で、380万人となった。また、著者の推計では負傷者も含めた被害者総数は730万人としている。当時の南ベトナムの人口は1900万人であることを考えると、極めて莫大な人数と言える。問題は莫大な人数もさることながら、数がはっきりしないという点、その理由にある。

さらにこの本の随所に出てくる、いくつかの言葉を書き出してみよう。
まず、グーク。これは新兵を躊躇なく殺人ができるように仕込む際、脳にたたき込む言葉の一つだ。元々はフィリピンで生まれ、米軍とともに世界各地で使われ続けてきた、現地人に対する蔑称である。
ボディカウント。ボディはこの場合、生きていない。要するに死体の数、のことだ。戦果を表すもっとも分かりやすい指標であった。それは現地の上官、司令官から、果ては国防長官に至るまでにとって、これ以上に分かりやすいものはなかったらしい。
自由射撃ゾーン。決してやりたい放題のことができるという意味ではなかったはずだが、その定義の曖昧さ、及び実際の運用上の歯止めの効かなさで、ボディカウントの増加にこれほど貢献した言葉もなかったであろう。また、このゾーン自体も際限なく広がっていったようだ。
他にも様々な重要な言葉が出てくるが、中には聞いたことのあるような言葉や名前もある。キッシンジャーはもちろん、コリン・パウエルの名前まで出てきた。もちろん全く不名誉な意味で。


私が子供の頃聞いたのと違う名称で出てきたのが、ミライ集落という地名だ。ソンミ村、と言えば覚えのある人は多いに違いない。当時日本でも大量虐殺事件が盛んに報じられた、その現場だ。ここまでで予想のついた人もいるだろうが、この本に描かれているのは、それが全く氷山の一角でしかなかったということだ。そして次の記述を読めば分かるが、日本人はもちろん、アメリカ人もその実態を全く知らずにきたのである。


ペンタゴンペーパーズロバート・マクナマラ国防長官が1940年代から1968年までのアメリカのベトナム政策について極秘裏に行った研究結果)・・・を読むと、四代の大統領政権が公の嘘をついていたこと、そのために国民が戦争の実態を知らされずにきたことがはっきりわかる。明るみに出た事実の中で最も重要だったのは、公式には美辞麗句を並べて崇高な理念を述べ立ててきたアメリカの戦争運営者たちが、ベトナムの人民にはまったくと言ってよいほど関心を持っておらず、南ベトナムを冷戦の覇権争いに必要な戦略拠点としか見ていなかったことだ。」

大統領の嘘はその後もうやむやになってしまうが、同様にミライ事件の容疑者は軍法裁判を受けるも、ほとんどなんのお咎めもなく事件が終結してしまっていたのだ。世界中にあれだけ報道されながら、その後どうなったか、誰も確認しなかったのだ。実は同様な事件のいくつかは調査の手が入ったこともある。ところが実際に当事者が裁かれたことはほとんどないのだ。


さて、この本がより重要な意味を持つのは過去の事実を知ること以上に、現在及び未来に関してである。上記のようにアメリカ軍は常態化していた犯罪行為を裁くことはなかった。問題はそこから現在の間は切れ目なく継続してしまっているのか否か、はっきり言えば虐待体質が続いているのか否かである。

イラク戦争などでも、捕虜に対する虐待などが行われたことが明るみに出たことは、記憶に新しい。その内容はベトナムで行われたことと大差ない。ベトナム戦争の時代から連綿と受け継がれてきた、習慣的な行為と受け取られてもしょうがない。本書の初めにも描かれている通り、戦地に赴く兵隊は躊躇なく人を殺せるように徹底して殺人マシンに改造される。また、徹底して人種差別、それに性差別も吹き込まれた(例えば「陸軍の徴募兵だったティム・オブライエンは‥‥『女は馬鹿だ。女は悪だ。共産主義者黄色人種と変わらない』というメッセージを吹き込まれたと書いている」)。

だが、そういうことが可能なら、逆に訓練によって徹底してジュネーブ条約などの遵守をもたたき込むことも可能なはずだ。だから、もしベトナム戦争からの教訓を真に生かしているなら、ジュネーブ条約などに反する虐待などの行為も、徹底して排除できるはずである。だが沖縄の現状を見てもそうであるように、実際はそうではない。そこから逆に推測すれば、現在もベトナム戦争の教訓は生かされていない、つまり依然として米軍の体質はベトナム戦争当時と大差ないのかもしれないと疑わざるを得ない。
そして、そのことは我々日本人にも直接関係がある。ベトナム戦争当時、その中継基地であったのが沖縄だ。そして現在、ベトナム戦争は過去の話になってしまったが、沖縄の基地は依然存続し続けている。

一方、アメリカではベトナム戦争後、多くの帰還兵がPTSDに悩まされ続けてきた。だが、皮肉な見方をすれば、PTSDになるだけの良心を保っていた人はまだよい。むしろ良心の呵責もなく、平然とその後も生き続けている人が多くいる、ということに戦慄を覚える。実際、ボディカウントを異常に多く稼いだある兵士はそのまま軍に所属し続けたし、あるいは上記したコリン・パウエル(彼が直接ボディカウントを稼いだわけではないと思うが)のように、政界・経済界で中枢を担っているような人も多くいるはずだ。

この本はベトナム戦争の本質を明確にするものだが、現代史を考える上でも、あるいはまた日本の将来、例えばどんな政権を選択するべきかを考える上でも、また憲法を考える上でも、沖縄戦に関する様々な書物とともに、必読の書としてお勧めする。少なくとも、いったい我々の『自衛隊』軍がそこに組み込まれようとしている、アメリカ軍とはどんなものであるのかを十分に知るための、最重要資料といってよい。ベトナム戦争における韓国軍のことも記されているのだが、これも大いに参考になるはずだ。

最後にもう一言。ベトナム戦争当時、アメリカばかりでなく日本も含めた世界中でベトナム反戦運動に非常に多くの人々が参加していた。それによって世界中の連帯も生まれていた。そして、世界中の人々がベトナムで何が行われているのかということを、注視していたはずなのだ。さらには戦争終結後にも、様々な形での本質追究への試みも多かったはずだ。にも関わらず、その本質はこれまで知られてこなかった、ということになる。歴史の本質を知ることがいかに簡単なことではないかを改めて思う。

著者についても簡単に書いておこう。この本執筆のきっかけとなったベトナム戦争犯罪作業部会の記録文書を発見した当時は、社会医学専攻の大学院生だった。1975年、つまりベトナム戦争終結後の生まれ。ジャーナリストとして、本書以外にもアフガニスタンの問題などに関する著書などがある。

先日の記事中の佐世保の宿の写真(と訂正)

 先日書いた、『ぼくが遺骨を彫る人「ガマフヤー」になったわけ』を読んだ、の冒頭で、佐世保の旅館で使われていた陶器の手榴弾(の余りもの)のことを書いたが、その写真がでてきたのでご覧頂きたい。

イメージ 1

イメージ 2
 憶に誤りがあり、亀甲模様はなく、のっぺりした丸形だった。たぶん見えていない方が、劇鉄などが入っている部分で、そちらを見れば、映画などで見覚えのある手榴弾形をしていたはずだ。
 それと花壇ではなく、むしろ塀というべきものに使われていたのだった。

 憶というのがいかに曖昧かということを改めて自覚した。そして、世界中に今、極めて莫大な数量の影像が溢れているが、歴史の検証という点では、非常に有用だと、一応は言えるだろう。
 もちろん、それらを恣意的に取捨選択して提示すれば、歴史の捏造にも使われかねないのではあるが、自由に莫大な影像にアクセすることさえできれば、そういった目論見はすぐ露呈することになるはず。


 ところで、ついでに少しこの旅館のことを書いておこう。ただし、こちらは記憶だけが頼りなので、正確か否かは保証の限りではない。
 
 の日は初めての佐世保だったのだが、宿の予約もしておらず、なんとなくアテもなく、繁華街から外れた一角をブラブラ歩いていた。大阪などでもそうだが、こんなところに何故、と思うような場所に小さな旅館があったりする。全くメインストリートではない、路地裏といってよいような道に面してこの宿もあった。
 より安いことが一番の条件だったので、ここならと思い聞いてみれば、幸い一部屋だけ空いていて、値段もとても希望に近かったので、泊まることにした。ちろん和室で、頼んだ夕食は部屋で食べることができた。その折、少し女将さんに話を聞いてみた。

 なお客さんは五島列島から大阪や東京へ向かう人々。船で佐世保に着くと、その日はここに泊まることになる、ということだった。海外旅行で、よく二十数時間かけてようやく着いたみたいなことを言うが、離島に暮らす人達は、日本国内すら一日では行けない。空港があったとしても便数は限られるし、なんといっても運賃は高い。LCCはそんなところに飛んではくれない。 
 時は学生などがスポーツ大会などに参加する時などに利用することが多い、という話だった。もちろんいわゆる商人宿で、行商人もいただろうが、そういう人は減っただろう。いずれにせよ、ほとんどがそういった昔からのつながりでやってくるお客さんなのだ。今でも営業しているのかどうかは不明だが。

 榴弾については、実は詳細は忘れてしまったが、たしかお父さんが戦前製作に関わっていて、戦後、使い切れずに放置されていたものを利用した、という話だったと思う。平和利用されてよかった、というようなことを言ったか言わなかったか‥‥。


 最後に次の投稿の予定を書いておこう、自分のためにも(必ず記事を書くようにするため、という意味)。
 現在読んでいるのが、『動くものは全て殺せ』という、ベトナム戦争の実態を書いた本。新聞各紙などに書評が出ていたようだが、全政治家必読と言ってよい内容だ、と考えている。これについては必ず書きたい。
 他にも、既に読んで書きかけのものがあるので、それもUPしたい。と書いておこう。

『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ』 を読んだ

『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ』
具志堅隆松著 合同出版2012年9月10日発行


 ずいぶん前、長崎県佐世保の路地裏でたまたま見つけた商人宿のような古い小さな宿でのこと。手作りらしい花壇に使われていた、亀甲模様の陶器が手榴弾の残り物であることを聞いた。金属が不足し、焼き物を使ってまで手榴弾を作る。そんな戦争に勝てるわけがない、のにそんなものを余るほど作ったわけだ。


 その焼き物の手榴弾が沖縄の地中からよく出てくる。もちろんそれだけでなく、米軍の不発弾、それに米軍の100分の1ほどの数の旧日本軍の弾の残りかす。だが、この本の著者の活動にとって、爆弾は主目的ではない。表題通り、遺骨を掘り出し、可能であれば遺族に返してやりたい(大抵、それはとても困難なのだが)との思いで遺骨を掘り始め、その活動を通じて様々なことに気づいていったことを、そしてそのことにまつわる心情を素直に述べている。


 初めのうちは、ただ遺骨の身元まで分かるようにとの思いで、丁寧に掘ることを続ける。行政に任せてしまうと、入札にかけ業者に任せてしまう。業者は効率的に掘り出すため、一帯の土をベルトコンベヤに乗せただ土と骨を選り分けるだけだ。著者達は遺跡の発掘のように丁寧に掘り出し、薄い可能性ではあるが身元が判明する証拠品も丁寧に掘り出す。そんな活動を続けるうち、遺骨、遺品が雄弁に戦争の状況を語っていることに気づく。


 手榴弾は一人が二つ持っていることが多い。一つは敵を、一つは自分を殺すため。日本軍は、沖縄住民を守るためにあったのではなく、逆に日本軍を守るために沖縄人を犠牲にしたことを物語る、証拠の一つだ。


 戦争は権力者が行う。国民の権利を守るため、などと言うかもしれない。だが一般国民が戦争など望むはずもない。まずもって戦争は権力者のために行われるものなのだ。その犠牲になった沖縄の人の数は今もってはっきりとは分からない。一方、アメリカ軍の遺骨は出てこない。アメリカ軍は専門のチームまで作って、必ず遺骨を遺族の元に届けたそうだ。せめて、遺骨を遺族の元に届けたい、との思いで今も著者達は活動を続けている。